アトスは自分でもぞっとするほどの冷たい声で言うと、ルネに向かって手を伸ばした。アンリが妹を庇うようにしてアトスの行く手を遮る。妹が、アトスから死角になっている方の手でドレスのポケットに忍ばせていた短剣を握りしめたような気配を感じたのは、おそらく気のせいではあるまい。
「ラ・フェール伯爵。貴方は今、ご自分が何をしようとしているのか、分かっておられるのか?」
アンリは一言一言区切りながら言った。
「何?」
「つまり、こう仰りたいのだろう?銃士隊に女がいた、と」
一瞬ひるんだアトスの表情を、アンリは見逃さなかった。さらに続ける。
「女が、神から賜った性を偽り、仲間を騙し国王を欺き、近衛銃士隊に入り込んでいたと、それを実証されたいのだろう?」
アトスはハッとなった。今目の前に男に言われたことをゆっくりと頭の中で反芻してみる。
―神から賜った性を偽り、国王を欺き―
もしそれが本当だとしたら、否、本当であると世間に知られてしまえば、アラミスは下手をすれば国王に対する反逆罪、神に対する不敬罪に問われかねない。もしトレビルも承知の上のことだったら、トレビルや銃士隊にも累が及ぶだろう。そこまで行かなくとも銃士隊に女がいたとなれば、銃士隊やフランスの面子は丸つぶれだ。
アンリはさらに畳かける。
「過去、男の姿をして国に尽くした女性がどのような末路を辿ったか、知らぬわけありますまい」
―そうか、そういうことだったのか…。
アトスは真相を悟り、思わず天を仰いだ。
アラミスは仲間とトレビルとフランス、そして国王の名誉を守るために、自ら「アラミス」であったことを封印し、兄はそんな妹を守るため自ら「アラミス」を名乗ることを承知したのだ。
―なぜだアラミス。なぜ君はいつもたった独りで何もかも決めてしまう?
―君が一言言ってさえくれれば、例え具体的な解決策を示すことができなくとも、共に棘の道を歩むことはできるのに…。
アトスは再び目の前の2人に視線を移した。黒衣の男の背後から覗く、懇願するような青い瞳と目が合う。
―ああそうだ。君はいつもそんな瞳を私に向けていたな。
銃士隊長になったとき、自分とポルトスを捕らえに来たとき、皇太后の機密文書事件で銃士を辞めたとき…。
その瞳でいつも自分に訴えていたのだ。「アトス、すまない」と。
アトスの変化を感じ取ったルネはもう大丈夫、とばかりにふっと視線をアトスから外すと、一歩前に進み出て言った。
「お兄様、どうかお怒りをお鎮めになって。伯爵様はきっと、今のお兄様が昔と大分違っていたから、少しびっくりされただけですわ」
いつの間にか、彼女から殺気が消えていた。
「ラ・フェール伯爵」
ルネは今度はアトスに向かって言った。
「かつてアラミスにかけてくれていた友情と変わらぬ友情を、これからも兄にかけ続けてくれることを約束して下さいますかしら?」
「…ああ分かったアラミス、約束しよう」
喉の奥から声を絞り出すのがやっとだった。もはやどちらの「アラミス」に対し答えているのかアトス自身よく分からなくなっていた。
ルネは少し寂しげに微笑むと、今度は兄に向けて言った。
「伯爵様がこのように仰って下さっていますわ。お兄様も伯爵への変わらぬ友情をお誓い下さいますわよね?」
アンリはため息をつきながら
「ああ分かったよ。…さっきは少し熱くなってしまいすまなかった、伯爵」
アンリは右手をアトスに差しのべた。アトスはその手を軽く握りしめる。
「ルネ殿、先ほどのご無礼のお詫びと言っては何だが…」
今度はアトスがルネに向き直り、言った。
「かつて私がアラミスにかけていた友情のほんの一欠けらでも、貴女にかけることをお許し頂けないだろうか?」
「ええ、喜んで」
ルネはニコリと笑うと、片手をアトスに差し出した。アトスはその手を取ると、懐かしい感触のするその手の甲にやさしく唇を押し当てた。
~終~