夜7時に始まったサロンは、やがてお開きの時間となった。客たちがぽつぽつと帰り支度を始める中、アンリはルネに近づき、そっと耳打ちした。
―アトス殿がお前の正体に気付いている。俺は知り合いのご婦人を途中まで送っていくから、お前は先に馬車の中で待っていろ。
ルネは分かったわ、と小さく頷くと、すでに入り口に向かっている集団の中に紛れて行った。
ルネは、時折知り合いの紳士や婦人と別れの挨拶を交わしながら、何事もなくスカロンの家の外に出ることができた。落ち着いた足取りで自分が乗ってきた馬車へと向かう。正直アトスに会うのは想定外だった。その後も、兄と別れたアトスの視線を感じることはあったが、さすがに大勢の人の前で何か事を起こす気はなかったのか、それとも他の貴族たちの話に足止めされていたのか、向こうから接触してくることはなかった。
自分を取り巻いていた貴族たちはもういない。このまま何事もなく馬車に乗り込むことができれば、逃げ切ることができる…。
「ルネ殿。」
馬車まであと少しといったところで、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「貴女の兄上のことでお話が…。少しお時間頂けますかな?」
―来たか…。
ルネは瞬間、覚悟を決めたように目を閉じると、努めて無邪気な笑顔で振り返り、伯爵の誘いに応じた。
◇◇◇◇◇◇◇
ルネはスカロンの家の2階にある、小さな書斎に通された。窓から入ってくる月明かりと焚かれた蝋燭で、部屋の中は随分と明るい。
背後で扉が閉まるのを確認すると、ルネはアトスに向き合い口を切った。
「兄のことでお話って、一体何ですの?」
内容は察しがついている。不安はおくびにも出さない。銃士時代、屁理屈でアトスに敵うことはなかったが、彼を黙らせるだけの口実は持っているつもりだ。そもそも、こういうのはこちらが堂々としていれば意外とバレないもの。8年間男として暮らし、何度か秘密がバレそうになったこともあったが、その度にそうしてその場を切り抜けてきたのだ。
アトスはやや間を置いて口を開いた。
「貴女の兄上は昔、貴女と同じ金髪と、青い瞳を持つ銃士だった」アトスは何か昔を懐かしむように言った。
「だが16年前、銃士を辞めた我々がフォルジュで再会したとき、貴女の兄上は今と同じ風貌にかわっていた。彼は家出同然に家を出たため姿を変える必要があったと言っていた」
「ええ、そうですわ。後見人の叔父と将来のことで仲違いし、兄は家を出たのです」
「私もそれを信じていた。…だが今日貴女に会い、私の心に1つの疑問が浮かんだ」アトスは、射るような視線をルネに向けた。
「―あなたが“アラミス”なのではないか、と」。
◇◇◇◇◇◇◇
同じころ、アンリは先ほどまでサロンが開かれていた客間に戻ってきていた。友人を見送り、自分たちが乗ってきた馬車に戻って来たのだが、ルネがいなかったのだ。
―嫌な予感がする…。
ふと、アンリは部屋の隅の方で、車いすに乗った小柄な男が動いているのを見つけた。スカロンだ。
「スカロン殿」アンリは愛想よく話しかけた。「私の妹を見かけませんでしたかな?先に馬車に戻っているように言っておいたのに、馬車にいなかったのです」
「ルネ殿なら先ほど、ラ・フェール伯爵と一緒に2階の書斎に上られましたよ。なんでも話があるとかで…」
―しまった!
アンリはスカロンに軽く挨拶すると、急いで2階に向かった。