新王宮前広場で、ダルタニャンは妙な違和感を感じていた。アトスとアンリがお互いほとんど「アトス」「アラミス」と呼んでいなかったのだ。そしてアトスが最後に言った誓いの言葉にも、ひっかかりを感じていた。
―もしかしたらアトスはアラミスのことを知っているのかもしれない。
それを確かめるべく、新王宮前広場から自宅に戻りポルトスが寝静まったのを確認した後、ダルタニャンはアトスが泊まっているという宿にこっそりやって来たのだった。
◇◇◇◇◇◇
16年ぶりに見るアラミスは、相変わらず美しかった。髪は昔と変わらぬ美しいブロンドで、肌も相変わらず白い。それどころか外で剣を振るうこともなくなったせいか、昔より幾分白くなった気さえする。男として生きることもなくなったせいか、表情も以前にも増して女性的で、柔和になった。もう45歳になっているはずなのに、せいぜい36、7歳くらいにしか見えなかった。
「アラミス…」
ダルタニャンの口から思わず出たその名を耳にし、ルネはさっと表情を曇らせた。だがそれはほんの一瞬のことで、
「まぁダルタニャンさん。また私を兄と間違えているのね!」
と言ってニコリと笑うと、「じゃあラ・フェール伯爵、お客様がいらしたようなのでお見送りはここまでで結構ですわ。ごきげんよう」とにこやかに挨拶をし、部屋から出て行ってしまった。
「ここに彼女がいたということはアトス、君はアラミスのことを知っていたのかい?」
扉が閉まり、足音が遠ざかるのを確認すると、ダルタニャンは椅子に座りながらアトスに尋ねた。
「ああ。君は確か、だいぶ以前から知っていたそうだな」
「うん、ベル・イールで知って…その後皆が銃士を辞めた後、お兄さんのことを知ったんだ。実はフォルジュの温泉でも、彼が本人じゃないって分かってた。ごめん、ずっと騙してて…」
そう言って深々と頭を下げたダルタニャンに、アトスは銃士時代もそうであったように、父親のような優しいまなざしを向けた。
「別に構わさんさ。俺が君でも、そうしただろうからな」
「で、アトスは?」
「え?」
「君はいつ知ったんだい?」
「つい最近だよ」アトスは微笑を浮かべて言った。「パリに来てフロンド派のサロンに行って、そこでたまたまアラミスに会った」
「アラミスから直接聞いたのかい?」
「アンリの方からな。直接―というか遠回しに言われて…悟った」
「悟った??」
新王宮前広場に行く前にポルトスに言われたことを思い出し、ダルタニャンは「ポルトスってすごいや!」と感心した。と同時に「なんだ、そうだったのか」と脱力する。アラミスもようやくアトス達に本当のことを話す気になったのかと期待したからだ。
「…アラミスらしいというか…なんというか…」
若い友人がため息交じりにもらしたその言葉に苦笑すると、アトスは「飲むか?」とテーブルの上のワインを差し出した。
「さっき彼女が置いて行ったものだ。美味いぞ」
答えがないのを同意のしるしと取ったアトスは、新しいコップにワインを注いだ。
「それでアトス、君はどう思う?」
「何が?」
「今の状況だよ。君は今の状況に満足しているのか?」
「え?」
ダルタニャンは差し出されたコップの柄を握りしめると声を潜めて言った。
「僕は…僕は納得がいかない。アラミスはアラミスだ。代わりなんていない。そりゃ、秘密は守らなきゃいけないっていうのはよく分かるよ。でも、仲間内でも彼女のことをアラミスと思っちゃいけないなんて、それは違うと思うんだ。君だってそう思うだろう?だからあの男のことは本名で呼んでたんじゃないのか?」
「まぁ…な」
「だったら話が早いや。僕と一緒にアラミスをあの男から引き離さないか?」
「何だって?」
それは16年前からずっとずっと、心の中に秘めていた計画だった。
「あの男は危険だよ。何を考えているのか分からないあの男と一緒にいれば、アラミスはいつかきっと破滅する」
「随分な言い方だな、ダルタニャン。仮にも彼女の実の兄ではないか」
敵意むき出しのダルタニャンに、アトスは思わず苦笑した。
「なぁダルタニャン。君はラウルのことをどう思う?」
「え、ラウル?」
ラウルとは、ダルタニャンがアトスを訪ねた際ブロワで会った、アトスにそっくりな少年のことだ。近くの教会に預けられていたのを、アトスが引き取って育てているらしい。アトスは彼のことを養子だと言っているが、ダルタニャンはアトスの実の子ではないかと踏んでいた。
「そりゃあ君の息子なんだから、僕にとっても息子みたいなものだけど…」
「だったらアンリのことだって兄のように思えるのではないか?」
「それは無理!!」
ダルタニャンは力いっぱい否定した。確かに昔は、アラミスの兄ということで彼のことをアラミス同様に信頼していたときもあったが、あの男の底の知れなさ、腹黒さを知るにつれ、警戒心の方が強くなってくる。
「あの男は油断がならないよ。あいつと一緒にいることが、アラミスにとって良いことだとは僕には絶対思えない」
アトスには、ダルタニャンの言うことが分からなくもなかった。フロンド派の同志として一緒に行動するうちに、アンリがアラミスを実の妹としてではなく、まるで自身の手駒のように扱っているような印象を受けたからだ。そういう男とずっと一緒にいることが本当に彼女のためになることなのか、疑問を感じたことも事実だ。だがアトスには、あの兄妹を引き離すのが得策とはどうも思えなかった。
アラミスの秘密を守る上で、一番目を付けられるとやっかいなのは宗教勢力だ。本来女性である彼女が男と偽り銃士になっていたこと、そこを下手につっつかれれば異端審問や魔女裁判に引きずり出される恐れがある。そんな彼女にとって、今ローマカトリック教会で絶大な勢力を誇るイエズス会に属している兄が味方についているという意義は、この上なく大きい。しかも彼のイエズス会内での地位―ひいては教会内での地位―が高くなれば高くなるほど、アラミスの身は安泰になるというおまけつきだ。何かと黒い噂の絶えることのないイエズス会がバックにあるということは、それだけで大きな抑止力となる。
現在あの男がイエズス会内でどういう地位にあるのかアトスには分からないが、いずれにせよあの野心家が今の地位に甘んじているはずはない。必ず上を狙うだろう。そしてアラミス自身もそのことを良く分かっていて、その上で彼に進んで協力している節があった。
「ダルタニャン、あの2人は今や一心同体だ。引き離すのはそう簡単には行かないぞ」
「それは分かってる。それに何も今すぐに、というわけじゃない。僕が元帥…いや、銃士隊長になってから…」
ダルタニャンはずっと考えていた。なぜアラミスが、あの男と共に生きる道を選んだのか。それは自分達に力がないからだ。どんなに思いが強くても、彼女を大切に思っていても、力がなくては何にもならない。彼女に不利な状況が発生した際それを庇い得るだけの、政治の中枢にいる人たちからの絶対的な信頼と怖れ、人脈、そして時にはその秘密をも武器にできるしたたかさとあざとさがなければ、彼女を取り巻く脅威から、彼女自身を守ることはできない。
銃士隊の副隊長になってから、ダルタニャンはトレビルが、アラミスの秘密を守るためにどれだけ腐心していたのかを思い知った。どんなに大切な友達でも、「ただの友達」ではだめなのだ。「友達」だけでは、彼女の精神的な支えにしかなれない。
「僕がトレビル隊長と同じくらいの力を得られれば―隊長と同じくらい、国王陛下や太后陛下からの信頼が得られ、宰相から怖れられれば、アラミスだってきっときっと、僕たちの所に帰ってきてくれると思うんだ!」
アンリとアラミスの間には直接の血のつながりがある。自分達に血のつながりはないが、アラミスは弟のように自分を可愛がってくれていたし、自分だってアラミスのことを兄や姉のように慕っていた。アトスやポルトスだって、アラミスのことを弟のように大切に思っていたし、アラミスだってアトスとポルトスのことを兄のように慕っていたはずだ。想いの強さだけなら、あの男に負けない。あとは、あの男が持っていて自分達が持っていないものを手に入れさえすれば、少なくともあの男とは対等になれる。
それはいきなり出て来たくせに、ただ「兄」というだけで自分達の前からアラミスを奪って行ってしまったあの男に対する、嫉妬なのかもしれないが…。
「ダルタニャン、もしかして君はそのために、マザラン側に着いたのか?」
アトスの問いに、ダルタニャンは静かにうなずいた。
ダルタニャンがブロワを尋ねて来たとき、やれご奉公だご褒美だの言う彼に失望したものだ。彼も遂に宮廷の薄汚い権力闘争や保身を考える廷臣達の考えに染まり、国王から王権を盗もうとしている輩に媚を売るような、そんな人物になってしまったのかと、彼の変わりようを残念に思った。
だがそれが友のためだったとは。確かにコンスタンスの夫であることや、首飾り事件や鉄仮面事件で太后からは篤い信頼を得てはいるが、幼い国王や新しい宰相にとって、彼はまだただの一介の兵士に過ぎない。リシュリューがトレビルを怖れたように、先王がトレビルを信頼したように、マザランから一目置かれ国王から頼りにされるためには、まずその目の前で手柄を立てるのが確かに手っ取り早い。
「上手くいけば、マザランから近いうちに銃士隊長の辞令が下りるはずなんだ。だからさアトス、約束してほしいんだ。今君は彼女と同じ一派に属しているんだろう?僕やポルトスよりもずっと彼女のそばにいられるんだから、もし彼女に何かあったら、君が彼女を守るって。例え彼女がフランスから追われるようなことがあっても、絶対彼女を見捨てないって!」
「…え…?」
アトスはダルタニャンの提案に躊躇した。アラミスを助ける、果たしてそんなことができるのだろうか、と。
アラミスがフランスから追われるようになったとき―それは彼女の秘密が公になったときだ。もちろん助けたいのは山々だったが、彼女の過去が思った以上の足かせになることに、このとき初めて気が付いた。
国王を―王権を至高のものと捉え尊重すること。それが彼の先祖代々からの家訓だ。一族の他の連中が、性別を偽り国王に仕えていた彼女を快く思わないだろうことは容易に想像できる。自分の一族にとって、彼女の存在は致命的だ。自分と彼女との関係そのものを認めようとはしないだろう。自分とアラミスとの関係を強調すればするほど、自分が彼女を庇えば庇うほど、彼女には「善良なるフランス貴族を惑わす魔女」というレッテルが貼られ、その立場は益々危うくなる。
そうなった場合、自分がどこまで彼女を庇い、守ることができるのか疑問だった。何より、彼女の尊厳を最も著しく踏みにじる方法で彼女の秘密を暴こうとした自分が、「そういった価値観」を全く持っていないと100%言い切れる自信もない。
それにラウル―。あの子の将来を考えると、アラミスを昔のようにおっとり刀で助けに行くことは、もはや不可能のように思えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「アトス…?」
もちろんだとも!―そう昔のようにすぐ答えてくれると期待していたダルタニャンは、アトスが戸惑っているのを見て不安になった。
「君、どうしたんだよ、なぁアトス?」
ダルタニャンはその青い瞳で―昔と少しも変わらぬ真剣さと情熱を湛えた瞳でアトスの顔を覗き込んだ。「アラミスのこと、助けてくれるだろう?な?」
「あ…ああ、そうだな。逃亡のための馬くらいは、用意できるだろう」
アトスはダルタニャンをがっかりさせないよう、精いっぱいの笑顔を作って答えた。
「何だよそれ」
予想と違う答えにダルタニャンは憮然としたが、アラミスがずっとアトスの世話になることを良しとするとは思えない。アトスが返答を躊躇したのはそのせいで、それを踏まえて「馬を貸す」と言ったのだと理解することにした。
「ま、いいさ。それだけでも。君が昔と変わらず、アラミスの味方でいてくれるのなら」
そう言って笑顔を返したダルタニャンに、アトスの心はチクリと痛んだ。そしてここに至りようやく、アラミスの本心を理解することができた。
アンリに言われるまでもなく、もう子供ではないのだ。何も背負っていなかった銃士だった頃とは違う。今は各々地位や身分を持ち、守るべき家族もいる。アラミスはそれが分かっていて―いや、分かっていたからこそ、自ら身を引く決意をしたのだ。
友の安寧な生活のため、自らの存在(過去)を消す道を選んだアラミスと、そんなアラミスをせめて自分達の中にだけでも引き戻そうと奔走するダルタニャン―変わってしまったと思っていた友は昔と寸分違わぬ友情をその心に抱き、自分はと言うとただただ昔の友情に固執するのみで、周りの変化を受け入れていなかった。
―変わってしまったのは俺自身の方、か…。
アトスは、心の中に広がった苦い思いを目の前の友人に悟らせまいと、一気にワインを呷った。
「あーあ、全く…アラミスも困ったもんだよなぁ」
ふいにダルタニャンが、上半身を椅子の背にもたれさせながら言った。
「僕達がどれだけ彼女のことを愛しているか、分かってくれたらいいのに…」
「まぁ、そう言ってやるな」
半分くらいワインが無くなったダルタニャンのコップに、新たにワインを注いでやる。
「上等なワイン1本をこうやって飲むよりも、ただの水でも4人で一緒に飲んだ方が何倍も美味いのに…そう思うだろう、アトス?」
「そうだな。だが今夜は2人しかいないからな。2人で4人分飲み明かそうではないか」
薄い笑みを湛えて言うアトスに、ダルタニャンは笑って「ああ、そうしよう」と答えた。
―4人の永久(とわ)の友情と、彼女の生活の安寧を願って…。
〜終〜
二次創作置き場トップへ
ブログへ