ルネはヴィユー・コロンビエ街の「青狐亭」の前で馬車を降りた。かつて仲間と一緒に何度も足を運んでいた、なじみの店の1つだったが、この二十年の間に宿の主人が何度も変わり、店の様子はすっかり変わっていた。昔を偲ばせるものは何一つない。ルネは改めて、時の流れの残酷さを感じた。
外套を取ると店の者に、ここにラ・フェール伯爵という貴族が泊まっているはずだが―ここにアトスが泊まっていることは以前兄から聞いて知っていた―、部屋に案内してもらえないだろうかと尋ねた。こんな夜更けにご婦人1人があの立派な殿様に何の用なのだろうと奇異の眼差しを向ける店の男に金貨を一枚与えると、男は恭しい仕草でそれを受け取り、黙って伯爵の部屋に案内した。
ルネは案内した店の男が奥に下がるのを見届けると、部屋の扉をノックした。
ほどなくしてアトスが姿を現した。
◇◇◇◇◇◇
「これは…ルネ殿。このような時間に一体何のご用で…」
新王宮前広場から戻って来たアトスは宿の部屋の中で一人くつろいでいた。驚いた表情のアトスにルネはにっこり微笑むと、手に下げた籠の中からワインを一瓶取り出した。
「戦勝祝い。一緒に飲もうと思って」
「戦勝祝い?」
「ボーフォール公奪還には成功したのでしょう?ホントは兄と一緒にやりたかったんだけどロングヴィル夫人のところに行っちゃったから…。スペイン産の銘酒よ。お好きなんでしょう?」
それが自分の好きな銘柄だということを一目で見抜いたアトスは表情をほころばせた。いつだったか銃士だった頃、そんな話をしたことを覚えていてくれたのだろうか。
アトスはルネに椅子を勧めるとワインの栓を開け、部屋に備え付けのコップに注いだ。甘く芳しい香りが辺りに漂う。
「懐かしいな。昔はダルタニャンとポルトスと4人で、こうしてよく酒を酌み交わしていたものだ」
「…そう、じゃあ今夜はさしずめこう言ってお祝いしようかしら?『昔を偲んで、乾杯!』」
「残念ながら遠い昔になってしまったな。乾杯!」
カチャリ、と音を立ててコップとコップが重なり合う。
アトスは、口を付けたコップをテーブルの上に置くと、「それで?」と相手を促した。
「貴女が今夜ここに来たのは、戦勝祝いが目的ではないのだろう?」
昔は浴びるように酒を飲んでいたアトスだったが、今はもう酒を断って久しい。アラミスもそのことは知っているはずで、こんな風に酒を持って訪れるとは、絶対何かあると思ったのだ。
「…ええ」
相変わらず察しが良いな、とアラミスは思った。思えばこの察しの良さに、これまでどれほど助けられてきただろう。
アトスはいつもそうやって自分のことを支えてくれている。何も知らされてなかったのに。その無償の友情に、自分はどれほど甘えていただろう。
この優しい男を―友情という目に見えない絆を重んじ、王権を神聖なものとして尊重するこの貴族の鑑のような男を道連れにはできないと、改めて心の中で誓う。
もし自分の過去が公になったとき、彼の一族での立場はどうなるのか。王弟が拉致される原因を作り、すんでのところで国王の命を奪う陰謀が生まれる発端を作った女と―男と偽り、国王を欺き続け、さらに王国の面子を潰した女と友として交わっていたという事実は、彼や彼の一族にとって、必ずや大きな汚点となる。
身分を隠して銃士隊に入っていた彼が大貴族の出であることはその立ち居振る舞いから分かっていた。その当時から自分の本当の姿が、彼や彼の周りの人間に及ぼす影響を懸念してはいたが―だからこそ、いつまでも本当のことが言いだせなかったのだ―、互いに本当の身分で付き合うようになった今、その思いは更に強くなる。
ルネはコップをテーブルの上に置くと、改まった表情になって言った。
「今日は伯爵に、お願いがあって来ました」
「願い?」
「貴方がスカロンさんのお宅で、私にも友情を示してくれると言ってくれたこと、本当に嬉しく思っているわ。でも…私の中に、かつての兄の姿を求めるのは、やめて頂きたいの」
2人の間に一瞬、沈黙が流れた。
「私は兄では…アラミスではないのだから―」
「ルネ殿、それはどういう―?」
怪訝そうな顔をしているアトスを見て、ルネは急に自信がなくなった。どこかで誰かが聞き耳を立てているかもしれない。たまたま耳に入った情報を、金銭で誰かに売り渡す輩がいるかもしれない。それを懸念して遠回しでしか物事が話せないのはいつものことだし仕方がないことなのだが、もはやアラミスとして直接彼に話す言葉を持たない自分が、それで果たしてどれだけ彼に本心を伝えることができるのか、不安になってくる。
どうか伝わって欲しい、分かって欲しいと、祈るような気持ちで言葉を続けた。
「貴方は私の中に、兄の面影を探しているのよ。自分でも気づかないほど、無意識のうちに…」
アトスがあの時スカロンの家で、これからも友でいてくれると言ってくれたのは本当に嬉しかった。心の底から嬉しかった。
けれどその後、フロンド派の同志として共に行動するうちに、彼の言葉や行動が兄や今目の前にいる「ルネ」という女性ではなく、自分の中にいるもう一人の自分―かつてアラミスだった自分に向いていることに気が付いた。それはつい先ほどの「昔はダルタニャンとポルトスと4人で」という言葉にも表れていた。
「貴方はそうすることで、私への変わらぬ友情を示してくれているのかもしれないけれど…でも…でも…私は…」
それでは困るの、と掻き消えそうな声で言うと、そのままうつむき、黙りこくってしまった。膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめる。
ルネの心の内に、ほんの数刻前の、あのとき不安がまざまざと蘇ってきた。
自ら苦しみ、時には手を汚し、ようやく築き上げてきたものが一瞬のうちに崩れ去ってしまうのではないかという不安、そして恐怖。それが自分が一番守りたいと思っている友人の、自分自身を想う心から出たことにショックを受けずにはいられなかった。
自分の中にアラミスを求めること―それがどれだけ危険なことなのか、彼は分かっているのだろうか…?
アラミスは震える唇で言葉を紡いだ。
「もし…もしこれから先も、私のことを友と呼んでくれるのなら…」
今まで君たちを騙し続けていた自分を、今でも友と呼んでくれるのなら。これから先もずっとずっと、友でいてくれるというのなら!!自分の中に潜むもう一人の自分の存在を意識してはいけない、見てはいけない。銃士だった頃、自分の中から「女」である部分を徹底的に排除したように。トレビルが他の隊士達と同じ様に自分を扱ったように。
秘密を守るということは、そういうことなのだ。
本来なら、こうして顔を会わせ二人きりで話しをすることもしない方が良いのだ。そう、銃士だった頃、「女」である自分しか知らない家族との連絡を、徹底的に絶ったように―。
例えそれがかつて永久(とわ)の友情を誓った友としての、永遠の別れを意味するものであったとしても、自分が本当に守りたいものを守るためならば…。
心の中の必死の叫びは、しかし声にはならず、代わりに瞳から溢れてくる涙が、ルネの膝を濡らした。
何の混じり気のない純粋でひたむきな気持ちは、大いなる秘密を持つ者にとっては、時としてどんな陰謀や暗殺計画よりも恐ろしい凶器となるのだ。アラミスはそれを身をもって知っていた。彼女にとって、アトスの示してくれる何の打算も下心もない崇高で純粋な友情は、今や自分が守ろうとするものを脅かす凶器以外の何物でもなかった。
◇◇◇◇◇◇
部屋を支配する重苦しい空気と彼女の必死の様相に、アラミスが何を言わんとしているのかを理解したアトスは、茫然と目の前の女性を見つめていた。
アトスは、アラミスであった過去を永遠に捨て去らなければならない彼女の身の上を哀れに感じていた。ほんのわずかでも、遠回しでもいいから彼女の「アラミス」としての部分を受け止めれてやり、かつてのように共に時間を過ごしてやることが、自分が友としてできる唯一のことだと思っていた。
アラミスは、それをやめてくれと言ったのだ。
決して自分を「アラミス」として意識してくれるな、と―。
長い沈黙が、2人の間を支配した。
「…分かった、ルネ殿」
アトスがようやく発した言葉に、ルネは心の中でほっと溜息をついた。
「だが1つだけ聞きたい。貴女はそれで本当に良いのか?後悔しないのか?」
「後悔―?」
今更一体、何を後悔しろというのだろう。
この道を選んでしまったことか。君たちに本当のことを話さずにいたこと?それとも仇を討つため銃士隊の門を叩いたことか。フランソワの主人のことを叔父に話してしまったことか。
「分からない…分からないけど…でも…こうして再び伯爵様にお会いでき、お話しできたことを神様に感謝したいと思っていますわ」
アラミスは静かに顔を上げると、ふわりと笑みを浮かべて言った。
―ならばこれはさしずめ、別れの盃と言ったところか。「アラミス」からアトスへの…。
心の中でそう呟くと、アトスはふっと苦い笑みを漏らした。
ルネが再び口を開いた。
「お話も終わったので、そろそろお暇いたしますわ。そのお酒差し上げます。それじゃ」
外套を手に取り外に出ようとした彼女を、アトスが呼び止めた。
「女性が一人で出歩いてよい時間ではない。送っていこう」
「ありがとう。でも馬車に従者を待たせてあるから、心配いらないわ」
「だが馬車のある所までは一人なのだろう?君に何かあったら君の兄上が…アラミスが心配する」
「そうね。じゃあ宿の外まで送って頂こうかしら」
そして外套を羽織ると、呟くように言った。
「ありがとう。お兄様のこと、ちゃんとアラミスって呼んでくれて」
アトスはそれには答えず彼女の前に立つと、部屋の扉を開けた。その瞬間、扉の外にいた栗色の髪の男が目の前に飛び込んできた。
「ダルタニャン!」
アトスが声を上げる。
ダルタニャンはアトスの隣にいる女性に気が付き、思わず呟いた。
「アラミス…」
アラミスの眉が一瞬、ピクリと動いた。
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