2.秘密



「それは何?」

翌朝、再びシュブルーズ公爵夫人の屋敷を訪ねたアンリは、僧服のポケットから小さな包みを取り出した。中には小さな木の破片が入っている。

「香です」アンリは、木片を小さな壺に入れながら言った。蝋燭で火を点けると、良い香りが立ち込めてきた。彼はそれを、妹が眠るベッドの脇にあるサイドテーブルの上に置いた。

「あら、この香り知ってるわ」シュブルーズ夫人が言った。「よく大聖堂のミサで焚かれているやつね」
「昨夜マドリードの大聖堂から拝借してきました」
「まぁ!盗んできたなんて!」
「ちょっ…人聞きの悪いこと言わないでください」アンリは少し顔を赤らめて言った。「つらい目に遭った信者に心の安らぎを与えるための必要な行為です。神様だって許してくれますよ」
「過保護ねぇ…」

シュブルーズ夫人はニヤニヤしながらアンリの顔を見た。パリの三銃士としての彼女を知る夫人は、アラミスの精神の強靭さをよく知ってはいたのだが…。

香には気持ちを落ち着かせる効果があると言われている。昨日のアラミスの錯乱ぶりを思うと、確かにそれは今彼女に最も必要なもののように思えた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


昼になって、アラミスは目を覚ました。なんだがとても良い香りがする。ぼんやりとした視界の中にまず映ったのは見慣れない天井、続いて身体全体がふんわりとした温かいものに覆われていることに気が付いた。

―何…?ここは…どこ…?

自分は捕えられ、冷たい牢に閉じ込められていたはずだ。そこにはベッドも布団もなかったはずで…。あまりの環境の変化の激しさに今自分の置かれている状況を呑み込めないでいると―尤も、意識が回復したばかりのまだぼんやりとした頭では、例え小さな環境の変化であってもすぐには呑み込めないものであろうが―柔らかい女性の声が聞こえてきた。

「気が付いたのね、よかった…」

声のした方に顔を向けた途端、アラミスの頭はまるで霧が晴れたかのように鮮明になった。

「シュブルーズ夫人…!!」

びっくりして身を起こそうとした瞬間、ふいに眩暈に襲われる。夫人は倒れそうになった彼女の身体を支えた。

「ダメよ、急に動いちゃ…」

夫人は枕とクッションをアラミスの背中の下に置き、無理なく上半身を起こせるようにしてやりながら言った。

「気分はどう?」
「あ…悪くはないです。大丈夫…」

アラミスは大きく深呼吸をした。部屋中に漂う良い香りが胸の中に染み込んでくる。それと同時に、気分がとても穏やかになっていくのを感じた。

アラミスはこのときはじめて、自分が女ものの寝間着を身に纏っていることに気が付いた。大きく開いた胸元から、白い乳房がのぞいている。

「あ…」アラミスの顔が、さっと青くなった。
「私の古い寝間着よ。サイズが合ってよかったわ」
「あの…」
「安心して。あなたが女性だってことを、口外する気はないから」

アラミスはほっと息をついた。

シュブルーズ公爵夫人とこうして言葉を交わすのは初めてだった。共に宮仕えしているとはいえ、片や銃士、片やフランス王妃の側近中の側近と、身分の隔たりは著しく大きい。アラミスはこの、自分とはこれまで何の接点もなかった身分の高い貴婦人に自分の秘密が知られたことに、奇妙な感動を覚えた。

「公爵夫人…ここは一体どこなのですか?私はフランスに戻ってきたのでしょうか?」
「いいえ違うわ」公爵夫人はアラミスの問いに優しく答えた。「ここはスペインにある私の家よ。スペイン兵に捕えられていた貴女を、私達が助け出して、ここに運んだの」
「私…達…?」

訝しんだアラミスがシュブルーズ夫人の視線の先を追うと、そこには長い黒髪の僧服を身に纏った若い男が、壁に背を預けて立っていた。

アラミスはそれが誰だか分からずしばらくじっと見つめていたが、ややあって記憶の底からそれが誰であるか思い出した。

「お…お兄様…!?」
「お前俺のこと完全に忘れてただろう?」
「酷いわねぇ…。貴女のこと、あんなに心配していたのに…」

アンリのツッコミに、シュブルーズ夫人が面白そうに合の手を入れる。

神父になると言って兄が家を出たのは兄が9歳の頃。自分に至ってはその時まだ5つか6つだ。一緒に暮らしていたのはもう20年近く前のことで、すぐに思い出せなくても無理はないと思うのだが…。

「ご…ごめんなさい…」

とりあえず、謝っておくことにした。

しかし、どうして兄とシュブルーズ夫人が一緒にいるのだろう?

不思議そうな顔をしているアラミスに、シュブルーズ夫人はニッコリ笑って答えた。

「私達、ここでは“従兄妹”ってことになってるの。だから貴女も私のこと、本当のお従姉様のように思って頼ってくれていいのよ?」
「は…はぁ…」

アラミスは何が何だか分からなかったが、とりあえず頷いておくことにした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


夕方になって、アラミスの元に食事が運ばれてきた。

とは言っても出された食事はスープ一皿だけ。もう何日も食事をとっていないため、最初はこのくらいの物から胃を慣れさせていかなければならないらしい。

お腹の空いていたアラミスは正直不満だったが、シュブルーズ夫人に「私も付き合うから」と言われ渋々口に運んでみたところ―ちなみに、兄は「明日また様子を見に来る」と言って、食事が始まる前に修道院に戻って行った―非常に美味しく、アラミスの顔はほころんだ。(尤も、フランス王妃側近の公爵夫人の家で出される料理なのだ。たかがスープといえども美味なのは至極当然のことなのかもしれない。)

あの後、アラミスは兄とシュブルーズ夫人にこれまでの経緯を話した。自分がなぜスペイン兵に囚われたのか、銃士になった理由等々…。

そして兄とシュブルーズ夫人の話を聞き、なぜこの二人がスペインにいるのかを理解した。

兄はめでたく司祭に叙せられた後、所属している修道会の意向でスペインに派遣されたのだという。フランスへの帰国の指示は出ているのだが、戦争により陸路・海路共に封鎖されてしまい、戻るに戻れなくなってしまったというのだ。

一方シュブルーズ夫人は、リシュリュー暗殺に失敗し、パリを追放されたのだという(アラミスは、最近パリで姿を見かけないと思っていたら、そういうことだったのかと合点がいった)。最初はトゥールでのんびり過ごしていたのだが、田舎での生活は退屈そのもの。そこでこっそりスペインに遊びに来たのだが、戦争が起きてしまい、帰るに帰れなくなってしまったらしい。

「やはり戦争が終わるまで、私もフランスへは帰れないのでしょうか?」

スープをすすりながら、アラミスはシュブルーズ夫人に尋ねた。話を聞いた当初は『追放中に国外旅行とか、一体何をやっているんだこの女性(ひと)は…』とげんなりしたものだが。

トレビル隊長もアトスもポルトスもダルタニャンも、皆きっと心配しているに違いない。今はまだ起き上がるだけでやっとの状態だが、動けるようになったらすぐにでもフランスに戻りたかった。

「そうね…今はまだ無理ね」
「そう…ですか…」

シュブルーズ夫人はスプーンを置くと、しょんぼりしているアラミスの手を取って言った。

「戦争が終わるまで、ここにいればいいわ。ここにはスペインに足止めされたフランスの貴族達や、新仏派のスペイン人も来るの。彼らは今戦争が早期に終結されるよう、力を尽くしてくれているわ。戦争が終わるのも、時間の問題よ」
「え…?」

どういうこと?とアラミスはシュブルーズ夫人を見る。

「簡単なことよ」夫人はニッコリ笑って答えた。「スペインにいるフランス人は自由に祖国と行き来したいし、スペイン貴族の中にはフランスに親戚のいる人もいる。両国は友好国であって欲しいし、争いが起きれば速やかにこれを解決したいって思うのは、当然のことでしょう?」
「いや…そうではなくて…」

アラミスはさっきのシュブルーズ夫人の言い方に、妙な引っ掛かりを感じた。『力を尽くしてくれている』―それはまるで貴族たちが、シュブルーズ夫人のために働いてくれているような…。

「ふふふ…流石はアラミス様。簡単には騙されてくれないわね」

シュブルーズ夫人は観念したように言った。

「私は王妃様の命令で動いているのよ」
「王妃様の?」
「ええ。王妃様はスペイン王家出身。西仏両国の諍いはできる限り避けたいと思っていらっしゃるわ。王妃様はこの戦争の早期終結をお望みなのよ。それも、西仏両国が共に、傷つかない形でね」
「つまり、公爵夫人は、フランスのスパイ…ということですか?」アラミスは声を落として尋ねた。
「う〜ん…当たらずといえども遠からずってところかしらね」シュブルーズ夫人はあっけらかんと答えた。「王妃様のため、と考えればそうかもしれないけれど、これはスペインのためにもなることだから。リシュリューあたりにしてみれば、私はスペインのスパイってことになるでしょうね」

アラミスはごくりと唾をのんだ。これはもしかして、ものすごい機密事項ではないのだろうか…?

「なぜ、そんなことを私に…?」
「貴女を信頼しているからよ」

アラミスは少し考えてから尋ねた。

「兄も…スパイなのですか?」
「いいえ違うわ」夫人はキッパリとした調子で言った。「彼には彼の仕事があるの。教会…というか、修道会のね。職業柄、人と話す機会も多いし、人脈も広いわ。そこでお互い役に立ちそうな情報を交換したり、助け合えることは助け合っているのよ。まぁ平たく言えば、協力者ってとこね」
「はぁ…」

戸惑ったような返事をしたアラミスに、シュブルーズ夫人は言った。

「優秀なのよ、貴女のお兄様は」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


その夜、アラミスが眠りについた後、シュブルーズ夫人は自分の寝室へと向かった。そこでは秘密の通路を通ってやってきたアンリが待っていた。

昼間着ていた黒い僧服はすでに脱ぎ、ラフなシャツ姿でベッドに腰掛けているアンリの元に駆け寄ると、「待たせてごめんなさい」と口づけをする。そしてドレスを脱ぎながら、アンリが屋敷を出てからこれまでのことを話した。

「全部喋っちゃったわけですか」

夫人の白い肌が徐々に露わになっていくのを眺めながら、アンリが呆れたように言った。

「随分とあいつにご執心ですね。そんなに気に入ったのですか?」
「まぁ!妬いているの?」
「まさか!」

アンリは、下着姿となって彼の隣に腰を下ろした夫人の身体を抱き寄せた。夫人はアンリの肩に頭を預ける。

「私ね、あんな風にかわいらしくて聡明で、活発な妹がずっと欲しかったの」
「“聡明で、活発”ねぇ…?」

シュブルーズ夫人の白い肩を撫でながら、そうだろうか?とアンリは心の中で呟いた。確かに“活発”ではあるのだろうが…。彼が知っているのは、まだまだ遊びたい盛り、やんちゃ盛りの少女の頃の妹なのだ。

シュブルーズ夫人は、いまいちピンと来ないという顔をしているアンリの、緩んだシャツの紐をもてあそびながら言った。

「彼女は優秀よ。なにせ、バッキンガ公爵がフランスから無事離れるのに、一役買ったんですから」
「そうなのですか?」アンリはびっくりして尋ねた。
「あのコがこちら側についてくれれば、きっと将来、貴方や私の役に立ってくれると思うわ」
「本人がそれを望むかどうかですよ」
「その気にさせるのが、貴方のお仕事じゃなくて?」
「ヒトを詐欺師か何かのように言わないでください」
「誤った道を歩もうとする子羊に正しい道を示すのも、神父様の大事なお仕事って言っているのよ。貴方だって、彼女にこのまま銃士を続けて欲しいとは思ってないんでしょう?」
「それはまぁ…」

8年もの間生死不明で、ようやく見つかったと思ったらあんな目に遭っていたのだ。銃士を続けて良い、と思う方がおかしい。

「一つ、彼女を完全に手に入れる良い方法があるわ」
「へぇ…どんな方法です?」

シュブルーズ夫人は興味深げに聞き返したアンリの顔を見つめると、人差し指を突き出し、自信満々にこう言った。

「貴方が彼女を抱いて差し上げること」
「冗談やめてください。妹ですよ?」
「でも、実の兄妹ではない。そうでしょう?」

穏やかな笑みを受べていたアンリの顔が、一瞬真顔になった。

「貴方だって聞いたでしょう?彼女が銃士になった理由」

夫人は、アンリの膝の上に移動した。

「賊に殺された恋人の敵討ちだなんて、ロマンチックじゃない?それに彼女の3人のお友達との友情の深さも、並大抵のものではないわ」

言いながら、両腕をアンリの首に回す。

「ああいう女性はこちらが目に見える形で情をかけてあげれば、それに必ず応えてくれるものなのよ」
「…酷いなマリー。私はこんなにも貴女のことを愛しているのに、貴女は私に『他の女を抱け』と言うんですか?」アンリは、自分に覆いかぶさろうとする夫人を抱きしめながら言った。

「それとこれとは別問題、でしょ?」

二人は再び口づけを交わすと、そのままベッドへと倒れていった。





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シュブルーズ夫人は原作をイメージした方がいいのかアニ三をイメージした方がいいのか、自分でもイマイチ分かってないですが(笑)。まぁビジュアル的にはアニ三をイメージしてるつもりだけど。っていうかそもそもアニ三の彼女は出番少なくて性格掴みきれねぇ(笑)。

原作1部でのアラミスとシュブルーズ夫人の関係って、もしかしたら現代でいうところの「友達夫婦」に近いんじゃないかなぁなんて、書いてて思いました。お互い愛し合ってはいて、共通して興味のあることとか利害の一致したことは一緒に行うけど、自分は関係のない(というか興味のない?)相手の個人的な事情にはあまり深入りしない…という…。1部でアラミスがシュブルーズ夫人がトゥールに帰ったことを知らなかったり、シュブルーズ夫人がアラミスの友達については名前くらいしか知らなかったり(ローシュ・ラベイユのくだりね)したのはそういう事情に因るものかなーなんて。

ていうか、以前どこかで(中文サイトだったかもしれん)、1部ではアラミスはシュブルーズ夫人のことを愛していたけど、シュブルーズ夫人はアラミスのことを利用していて、1部終了以降アラミスがそのことに気づいて、それがやがて3部の不仲につながっていったんじゃないかという考察を読んだことがあるんですけど、「(若いころ)あれほど優しく愛し合っていた二人の恋人は〜」っていう3部の描写が好きでそれを信じたい私は「そんなことない!><」って思いたいんだよ…(;´Д`)(でもひとみセンセーのダルミラもなんかこんな風な考察に立って書かれたような気がするから、実際のところどうなんだろな…)

アニ三のアラミスとシュブルーズ夫人は何も接点がない、という風にしました。まぁ実際本編でも絡みってなかったしね。原作でシュブルーズ夫人がアラミス以外の銃士(アトスとかポルトスとか)のこと名前くらいしか知らず、アトスでさえシュブルーズ夫人の顔を知らなかったということは、もしかしたらお互い顔も名前も知らなかった可能性は大だと思うんだけど、それじゃ話が進まないので「直接の面識はないけどお互い顔と名前(と噂)くらいは知っている」くらいにしときました。まぁお互い有名人ですからね(笑)。

「シュブルーズ夫人パリ追放中」は以前ブログに書いた勝手な思い付きからです。

よくドラマとかで、「幼いころ生き別れた兄弟姉妹と大人になって再会して〜」なんて話あるけど、そんないきなり会ってすぐ誰だって分かるもんなんですかね?私だったらそもそも人の顔と名前覚えるのが苦手なので、分かる自信が全然ないんですけど(苦笑)。ただまぁ原作アラミスは一度会った女性の顔と名前は絶対忘れないタイプだと思います(キッパリ)。

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