異端者たちの聖夜



星降る夜、アラミスは一人、ポン・ヌフを歩いていた。身体にはまだ、先ほどまで抱いていた女の温もりが残っている。

今夜は聖夜、主が御使いをお下しになった日。この厳かな夜にふさわしく、パリの街はしんと静まり返っていた。いつもは明け方まで騒がしい銃士隊や護衛隊の姿もない。さすがにあの不信心者共も、この日ばかりはバカ騒ぎを慎みたくなるのだろう。


ふと歩みを止め、空を見上げる。降るような星が目の前に広がった。



アラミスは数刻前までいた神学者の家でのことを思い出した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ねぇアラミス様、どうしてユダは悪者なの?彼はイエスを売ったことを後悔したのに…。彼は神様に赦されなかったのかしら」
「え?」

聖誕祭の夜、アラミスはある高名な神学者の家に呼ばれて来ていた。薄暗い部屋の中、自分の隣に腰かけた少女の顔を訝しげに覗き込む。彼女の深い海を思わせる碧い瞳と栗色の髪が、ロウソクの光に照らされ美しく輝いた。

こんな妙な質問をされなければ、いつまでも見とれていたいと思っただろう。日ごろ世話になっている神学者から姪の話を聞いてやってほしいと頼まれて来たのだが…話と言うのはこのことなのだろうか?

「なぜ、そう思うのです?」

アラミスは心に浮かんだ疑問をそのまま口にした。この説は確かはるか以前に異端として追放されたはず。なぜこの娘が唱えるのだろう?

「だって、この世の全てのことは、神様の御心のままに動いているのでしょう?イエスがこの日裏切られ、処刑されることはすでに決まっていた…ユダの密告がなければ、神様の計画は成就しなかったことになるのだし…『裏切り者』というよりは、彼は神様の計画を成し遂げるために罪を着ることも厭わなかった、むしろ尊い方ではないのかしら?それに神様は、自らの息子であるイエスに私達人間の罪を一身に背負わせ、その命を召し上げることで全ての人間の罪を赦されたのでしょう?ならば、ユダの罪も赦されて然るべきだと思うの」

危険な思想だな…とアラミスは思った。そういう意見がないこともない、ということは知ってはいるが…。

「その話、貴女の伯父上にもしたのですか?」
「したわ!でも伯父様ったら、『ユダは神の子イエスをローマ人に売り渡し、彼を死に至らしめた張本人なんだから悪者なのは当たり前!赦されるなどもってのほか!!』の一点張りで全然取り合ってくれないんだもの。それどころか『こんな信仰心の薄い娘に育ってしまったなど嘆かわしい!』って、大騒ぎするのよ」

アラミスはようやく合点がいった。恐らくこういうことなのだろう。嫁入り前の可愛い姪が突然異端の説を唱え始めた。自分の言葉にも耳を傾けようとしない―それどころかますます頑なになっていく。そこで自分に助けを求めたのだ。好意を寄せている若い男に諭されれば―この神学者の家に頻繁に出入りしているアラミスは、彼女が自分に熱い視線を向けていることに気づいていた―、姪も考えを改めてくれるのではないかと、そう思ったのだろう。

でなければあの厳格なオヤジが大事な姪っ子を、聖夜に若い男と二人っきりにさせるはずがない。

「まぁ教会のお偉方というのは、得てして頭が固いものですからね」

アラミスはクレーヴクールでのことを思い出した。あの時はイエズス会の修道院長とモンディディエの司祭に自分の考えを頭ごなしに否定され大分困ったものだが、その時の自分と今目の前でプンスカ腹を立てている娘の姿とが重なる。

さてどうしたものか…。ここで「そういう考えは良くないからやめるように」と言うのは簡単だが、却って逆効果だろう。一度考え出してしまったことを、考える以前に戻すことはできない。神学者の期待に応え、娘に穏便にこの「悪い考え」を放棄させるのは、非常に難しいことのように思えた。

アラミスは少し考えた後、静かに口を開いた。

「それで、貴女はどう思うのです?」
「え?」
「貴女はユダは赦されたと思うのですか?」
「私は…彼は赦されたと思いたいし、もし赦されていないのであれば、赦されるようお祈りしたいと思っているわ。でも…」

娘はきまり悪そうに眼をそらすと、おずおずと口を開いた。

「…貴方はそちら側の…伯父様側の人だから、私のことを批判するのでしょうね」
「私は貴女の信仰を、否定するつもりはありませんよ」

娘はびっくりして顔を上げた。

「信仰?」
「貴女が彼が赦されたと考え、思い、信じること―それは貴女自身の信仰です。誰もそれを批判することはできないと思いますよ。先ほど信仰心がどうのという話が出ましたが…」

アラミスは娘の瞳を見つめ、優しく言葉を続けた。

「誰も赦そうとなどと思わない彼の罪が赦されるよう祈る貴女に信仰心がないとは私には思えません。ただまぁ、貴女のその『信仰』を誰かに言うのは、今後はやめた方がいいと思いますけどね」
「どうして?伯父様に怒られるから?」
「まぁ、それも確かにありますが…。例えば貴女は、亡くなられたお父上がちゃんと神の元に行き、幸せに暮らせているかどうかを誰かに尋ねたりしますか?」
「いいえ。だってお父様はご立派な方だったもの。神様の国に行けないわけないし、行って幸せに暮らしていると信じているわ。それを誰かに尋ねるなんて、お父様に対して失礼よ」
「それと同じことです」

アラミスはにっこりと笑った。

そう、一度考えてしまったことを、考える以前に戻すことはできない。その思考に取りつかれているのならなおのこと、放棄させるのは至難の業。だが、その「考え」を今後は口にしないよう、諭すことはできる。

この世界で生きていくためには、したたかでなくてはならない。例えそれが自分がどんなに正しいと思うことでも、自分が手に入れたいものを手に入れるためには、その考えを胸の内に秘め、大衆に迎合しなければならないことだってある。教えの矛盾に気づいたこの賢い娘なら、いつかきっとそのことに気づくだろう。


「ありがとう、アラミス様。アラミス様はきっと将来、偉い御坊様におなりあそばすわ」

納得のいく答えがもらえてようやく胸のつかえがとれたのか、娘は晴れやかな笑みを浮かべて言った。アラミスは一瞬ドキリとしたが、それは彼女の純粋な笑みのせいなのか、それとも自尊心がくすぐられたせいなのか…。

「そう言って頂けて光栄です、お嬢さん」

アラミスは照れくささを隠すように娘の手を取ると、お礼のつもりでそっと口づけをした。

ふと、邪な考えが頭の中をよぎる。年齢は16〜7と自分より7つ6つ年下の娘にこのような感情を抱くとはと内心苦笑したが、娘の方にだってその気がないわけではないのはよく知っている。

あの神学者には悪いが、せっかくの聖夜なのだ。ここに来るときポルトスとダルタニャンに散々からかわれたのだから、このくらいの「お駄賃」は良いだろう。

アラミスは娘の身体を引き寄せると彼女の背中に手を回し、ドレスの紐に手をかけた。一瞬娘が恥じらうように身をよじり、抵抗の意志を示す。

アラミスは優しくささやいた。

「そんなに心配することありませんよ。さっき貴女も仰ってたではありませんか?この世の全ては、主の御心のままに動いていると…」

娘の身体から緊張が少しずつ解けてゆくのを感じると、アラミスは唇が触れるか触れないかの距離に、そっと顔を近づけた。

「今夜私達がここにこうしていることも、これからすることも、全て主の御心に沿ったもの…違いますか?」

娘は同意のしるしにこくりと頷いた。彼女の熱い吐息が、アラミスの唇にかかる。

「今晩のことは全て、伯父上達には内緒ですよ?」

娘は「ええ、もちろん」と言おうとしたが、男の熱い唇に塞がれそれは言葉にならなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


夜の寒さが、アラミスを夢想の世界から引き戻した。

空の星が、セーヌの水面に映りゆらゆらと輝く。主が御使いをお下しになる前から瞬き続ける星々―東方から来た賢者や、先達たちも目にしたであろう星の瞬き。

思想が幾たび変わろうと、教えや思想がどれだけ形骸化しようと、人の営みと同様、綿々と続く変わらぬ光景…。


外套を着ているとはいえ、じっとしているとさすがに寒さが身に染みた。まだほんのりと残る女の温もりを逃がさないように、アラミスは自分で自分の身体を抱きしめる。

今夜は聖夜、主が御使いをお下しになった日。あの女のようにせめて今夜くらいは、永遠の裏切り者の烙印を押されたあの者のために、祈りを捧げてみるのも悪くないかもしれない…。

教会のお偉方に知られたら、怒られるどころでは済まないのだろうが。

―こんなことを考えているようでは、叙階への道はまだまだ遠い、か…。


アラミスは肩をすくめると、自宅へと歩いていった。



〜終〜



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