「お前、スペイン語って喋れたっけ?」
「―は?」
ミレディの手から逃れるため、しばらくスペインに身を寄せることが決まって暫くしたある日、夕食が終わった後兄の書斎に呼び出されたルネは、全く予期していなかったことを聞かれ、きょとんとした。
◇◇◇◇◇◇◇
ルネの秘密が漏れようとした先日、とりあえず事後処理や諸方面の口を塞ぐことには成功したものの、これ以上ここにいるのは得策ではないと判断したアンリは、移転先の選定に頭を悩ませていた。ミレディの処刑命令がイギリス国王から出ているのならイギリスに身を寄せるのも1つの手ではあったが、イギリスより知り合いも多く、いざとなれば国王の庇護も受けられるスペインの方がより安全だろうという結論になり、しばらくスペインに身を寄せることにしたのだった。
だが、1つだけ気がかりなことがあった。言葉の問題だ。古い記憶をどんなに掘り起こしても、妹が外国語をまともに勉強をしていた記憶というのが全くといってなかったのだ。音楽やダンスや刺繍といった貴族の令嬢としてのたしなみ以外では乗馬や銃の使い方や剣術―もちろん、あくまで狩猟での銃の使い方とか女性の一般的な護身術としての剣術であって、軍隊のような本格的なものでは断じてないのだが―に力を入れていたのは覚えているが…いや、むしろそれにばかり偏っていたような気がする。
「で、どうなんだ?」
「あ…うん、子供のころに教養で少しやったくらいでその後は全然…」
「ま、そうだろうな」
言うなり本棚の方に歩み寄ると、アンリはじゃあやっぱりこのくらいかと独り言を言いながら古びた本を1冊取り出し、はいとルネに手渡した。
「…何これ?」
「俺が昔使っていた初級者用のスペイン語教本だ。もう現地に行ってどうこうするしかないだろうが…どうせ暇なんだろう?出発までまだ少し時間があるから、それ読んで少しは勉強しておけ」
「ええ~っ!?」
「ええ~!?とは何だ、ええ~!?とは。何しに行くのか分かっているんだろうな?物見遊山に行くんじゃないんだぞ?」
「それは…分かってるけど…」
「けど何だ」
「また基礎から始めるのかと思うと…」
「基礎が大事なんじゃないか基礎が。そもそも基礎すらできていない奴が何を言っているんだ?」
それを言われるとルネは反論できなかった。確かに子供のころスペイン語の勉強をしたことはあったが、王侯貴族じゃあるまいし、どうせ将来嫁ぐことになったとしてもそれはフランス国内でのこと、外国語を使うことは一生ないに違いないと思い、大して勉強していなかったのだ。
だがここで兄に負けたくはなかった。今度いつフランスに戻って来るのか分からない―ことによったら一生戻って来れないかもしれない―のだから、出発までの限られた時間はできるだけ好きな場所に行って好きなことをして、フランス最後の生活を満喫したいと思っていたのだ。何とかして抵抗しようと臨戦態勢を敷こうとした矢先、兄がさらりと恐ろしいことを言ってのけた。
「向こうの屋敷の連中は全員スペイン人でフランス語通じないからな」
「な…ッ何それ…!!」
「スペインなんだから当然だろ?」
「で…っでも、お兄様がいるじゃない?」
「バカを言うな!俺だって色々忙しいんだ。四六時中お前にひっついて通事などしていられるか!…とにかく、『神は自ら助くるものを助く』。せいぜい頑張って勉強しろ!!」
まだ何か言いたそうな妹を身振りで強引に部屋に引き下がらせると、アンリは倒れ込むように椅子に座った。
―全く父上も母上も叔父上も、とんでもない遺産を残してくれたものだな。
ふぅと一つ、大きなため息をつく。
―死んだ男のことなどさっさと忘れて、どこぞに嫁いでいればよかったのだ。そうすればこんな面倒なことをせずに済んだものを…。
銃士をやっていたと聞いた時には「このじゃじゃ馬一体何をやってるんだ」と思ったものだ。このまま秘密を闇に葬り去るため人里離れた修道院に入れるとか、当たり障りのないところに嫁に出してしまうことも考えたが―多少歳いっているのがアレといえばアレだったが、スペイン国王と親しい自分とお近づきになりたいという連中は吐いて捨てるほどいるのだ―この手のタイプをうっかり嫁にでも出すと後々面倒なことになるのは自分の交友関係を見れば明らかだったし、修道院に入れても大人しくしてはくれないであろうことも火を見るより明らかだった。
何より彼女自身が、普通の女性としての穏やかな生活を望んでいないのだ。
それでやむなく手元に置いておくことにしたのだが…ここ数年一緒に暮らしてみて実感したことがあった。それは彼女の政治的思考・感性が、自分とかなり似ているということだった。銃士隊などに入って陰謀と隣り合わせの生活を送っていたせいか、どうやら本来一生目覚めるはずのなかった意外な才能が開花してしまったらしい。
アンリにとって、それは非常に嬉しい「誤算」だった。これは即ち、こちらから逐一指図をしなくても、妹が自分のいない場所で自分の望む通りに動いてくれるということを意味する。アンリは期せずして、「性別の違うもう一人の自分」を手に入れた形となったのだ。
正直、彼女が女性であることは大変大きなメリットだった。男の自分では入り込めないような場所にも容易に入っていけるだろうし、知り得るのが困難な情報も難なく手に入れることができるだろう。
それにあの筋金入りの秘密主義―。秘密のためなら友をも欺くのはもちろん、自分に仕える使用人をもあっさり始末する姿勢には感服せざるを得なかった。おそらく過去の苦い経験から来るものなのだろうが、時に国をも動かす重大な機密と接する機会がある身としては、その存在は大きな助けとなる。
―トレビル殿があいつをなかなか手放さなかったわけ…か…。
銃士隊に入れただけでなく、目的を果たした後ものうのうと隊にいることを許可したトレビルには文句の一つも言いたいところだったが、剣の腕前云々はもとより、確かにそんじょそこらのスパイなどと比べても遥かに有能なのは間違いなかった。
―もしかしたら、イエズス会管区長や総長の座を手に入れるための有力な方法だって手に入るかもしれない…。
唯一懸念すべきは裏切りだったが、彼女が自分を裏切ることはまずないと確信していた。結婚を拒んでいる以上、自分という後ろ盾がいなくなれば自由に動けないのだし、何より銃士をやっていたという秘密を守る上で、自分は格好の「隠れ蓑」なのだ。
本来、フランスでの基盤づくりを終えたら、フランスのことは妹に任せてスペインに戻るつもりだった。だがその予定が崩れてしまった以上、妹にはスペインでそれ相応の働きをしてもらわなければならない。
彼女自身が結婚も修道院行きも望んでおらず、政治的な陰謀と隣り合わせの人生を望んでいるのなら尚更だ。
そのためには何としても言葉は習得してもらわなければ。マナーや習慣なども学んでもらうのはもちろんだが、サロンや宮廷に行っても相手の言っていることが分からない、耳から入ってくる情報から有力な情報が洗い出せない、相手の言葉の裏が読み取れないようでは話にならない。
―変わったな、俺も。
窓から降り注ぐ月明かりを見ながら、ふと彼女が「血を分けたただ一人の肉親」「守るべき大切な妹」であると同時に、それとは別の重要な存在になっていることに気づき、アンリは自嘲気味に嗤った。
~終~