すり替わったアラミス―不安



薄暗い書斎の中を、ルネは1人落ち着かなく歩き回っていた。部屋の時計はすでに夜10時を回っている。



兄の帰りが遅いとは思っていた。ボーフォール公の護衛を終えたら一旦屋敷に帰ってくるはずだったのに、予定の時刻を過ぎても戻って来なかったのだ。そのままロングヴィル夫人のところに行くなんて聞いていないし、まさか道中何かあったのではないかと気をもんでいたところ、兄からの使いが事の次第を告げに来た。曰くラ・フェール伯爵の提案で、彼と一緒にパリの新王宮前広場で、ダルタニャンとポルトスと話し合いをすることになった―だから要は帰りは遅くなるが縄梯子の用意はちゃんとしておいてくれ(ついでにロングヴィル夫人にもよろしく)ということだったのだが、その事実は彼女を安心させるどころか、不安をますます増長させた。

新王宮前広場がどんなところか、ルネが知らないはずはなかった。あそこは果し合いが行われるところで有名なところだ。しかも場所を指定したのはダルタニャンだったと聞く。彼だって、あそこがどういうところなのか知らないはずないのに…。政府を相手取って戦っている2人を敵のお膝元であるパリに呼び出し、よりによってそんな場所で話し合いを行うなど、一体何を考えているのだろう?

嫌な予感がルネの心の内に湧き上がってきた。

―もし本当に果し合いが行われたとしたら…?兄に万が一のことがあったら、私はどうなるのだろう?いやそれよりも、太后とマザランがこの会談を利用して、兄たちを逮捕しようとしているのだとしたら…?

かつてない不安が頭の中を支配する。兄の剣の腕を疑っているわけではない。アトスだっているのだから大丈夫だろう、とは思う。けれど多勢に無勢という言葉もある。もし何十人何百人の兵士たち相手に捉えられ太后のもとに連れて行かれ、太后に私たちの秘密がバレてしまったら…?しかもそれを騒ぎ立られでもしたら、何もかもお終いだ。

先の太后はすでに亡く、トレビルも齢のせいか病がちで天に召されるのも時間の問題と聞く。自分の秘密を知り、庇護してくれる人物はもはや兄だけなのだ。

最悪の事態を避けるため、もしもの時は何としても兄だけでも救い出す必要があった。でもどうする…?諸侯に呼びかけてパリに援軍を送るか…。そんなことをしたら戦争になるのは間違いないだろうが、どうせ遅かれ早かれ戦は起こるのだ。その混乱に乗じて兄を脱出させれば…。


しかしそこまで考えたとき、ルネの動きはハタと止まった。これはボーフォール公が4人の旧友のためにと認めた会談だ。いくら敵の本拠地とはいえ自分1人が声を掛けただけで諸侯が応じてくれるとは限らない。どうすれば確実に軍隊を動かすことができるだろう…そうだ!ロングヴィル夫人…彼女なら兄のために動いてくれるはずだ。仮に渋ったとしても、あの小娘1人言いくるめるのは造作もないこと。彼女の号令があれば、彼女を慕う諸侯たちがきっと援軍を送ってくれるに違いない。

1人置いてけぼりにされるアトスが気の毒に思わないことはなかったが、相手側にダルタニャンとポルトスがいるなら決して悪いようにはならないはずだ。アトスの救出は、兄を助け出してからじっくり考えればいい。


そう思い出かけようとした矢先、窓の下から3つ、手を叩く音が聞こえてきた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「良かったお兄様…ご無事で…!」

縄梯子を伝って窓から入ってきた兄の姿を見るなり、ルネは兄の元へ駆け寄った。全身をさっと眺め見る。靴や胴着には大分砂埃がかかっているが、大きなケガはしていないようだ。兄と抱擁を交わした拍子にふいに溢れてきた涙を、ルネは慌ててぬぐった。

「何だよ。そんなに心配していたのか?」

過剰とも思える喜びぶりに、アンリが怪訝そうに聞いた。

「だって新王宮前広場って聞いたから。てっきり決闘でもするのかと…。お兄様が死んだり逮捕されたりでもしたら、どうしようかと思っていたの」
「まぁダルタニャンには大分噛みつかれたし、決闘寸前までいったけどな。伯爵が丸く収めてくれた」
「アトスが…?」
「ところでお前、どこかに出かける予定だったのか?」

手を叩いてから縄梯子が降ろされるまでの時間が普段より短かったのだ。彼女自身が出かけようとし、窓辺で縄梯子をかけようとしていたのなら納得がいく。

「ええそう、ロングヴィル夫人の所へ…。諸侯に援軍をパリに送ってもらう相談をしようと…」
「援軍?」

ルネは先ほどまで自分が考えていたことを兄に聞かせた。

「は…全くお前という奴は、本当にとんでもないことを思いつく奴だな」

アンリはルネの顔をまじまじと見つめると、感心したような呆れたような口調で言った。もし本当に軍隊が到着していたら4人の亀裂は決定的なものとなり、ラ・フェール伯爵の苦労はすべて水の泡と化していただろう。

「今のお前の話を聞いたら、伯爵が哀れに思えてきたよ」
「なんで?」
「彼はお前のためにも、彼らと仲直りしなければと思ったらしい。伯爵はお前のことを兄弟のように思っていると言っていた」

アンリは、新王宮前広場でアトスが彼らに誓った(ついでに自分も誓わされた)言葉を思い出して言った。

「いくらアトスが私を兄弟のように思ってくれているのだとしても、実のお兄様には適わないわ」
「それはどうも、有り難いことだな」

にこやかな微笑を湛えて答えた妹に、アンリもフッと笑みを返した。

援軍の話と言い、かつての友情を忘れたかのような言い草だが、これがこいつの行動原理なのだ。こいつが最も恐れているのは自身の過去が明らかにされ、そのことで仲間や国の名誉が傷つき、彼らを危険に晒すこと。それを回避するためなら、4人がバラバラになることも厭わない。むしろ4人の友情の破たんなど、「大事の前の小事」に過ぎないのだ。いつまでもかつての友情に固執し、仲良し4人組でいたいと願うダルタニャンやアトスとは、考え方が根本的に違う。

アトスのことを哀れに思ったというのは嘘ではないが、己の人生全てをかけて守ろうとしている彼らに、なかなか本心を理解してもらえない妹への憐みの方が増す。結局、こいつのことを分かってやれているのは自分だけなのだ。

妹を辱める形でその秘密を暴露しようとし、しかも彼らと敵対することを承知の上でこちら側についたのに、いざ刃を交えたら動揺したあの男―なおかつ丸腰で行くと言って聞かなかった―と仮初にも友人のフリをすることに疑問を感じつつあったアンリだが、妹を見て改めて決意を新たにした。そうだ、今までこいつがこのことで、どれだけの涙を流し、どれだけ苦しんできたのかを俺は知っている。

それに「アラミス」としてこれまで手に入れた人脈や名声を、今更手放すのも惜しい気がした。


「さて…と、お前の顔も見れたことだし、そろそろ行くとするかな」

アンリはわざと軽い調子で言った。

「え?どこに?」
「ロングヴィル夫人の所」
「もう行くの?帰って来たばかりなのに?」
「当たり前だろ。夜は短いんだ。…何?お前まさか妹のくせに夜俺にどうにかしてもらいたいとか思っているのか?」
「ち…違うわよ!!!」

耳まで真っ赤にして大否定した妹にからかうような視線を投げかけると、アンリは窓から出て行こうとした。が、何かを思い出したように立ち止まると、鞘の中から剣を抜き、机の上に置いた。

「何、この剣折れてるじゃない?」

剣が折れるほど激しい戦闘があったのだろうかと、ルネが訝しそうに聞く。

「ああ折った。というか、折らされた」
「折らされた??」
「新しいのに代えていかないと…。またマルシヤック公に襲われたらこの剣じゃ太刀打ちできないからな」
「地下道通って行くんじゃなかったの?」
「出口で待ち伏せに遭うかもしれないだろ?」

アンリは壁にかけてあったものの中から適当なものを一振り鞘に収めると、じゃあ留守番よろしくと妹の頬に軽く唇を寄せ、窓から出て行ってしまった。

「…もう!せいぜいマルシヤック公に気を付けてよね!」

兄の背を追いかけるように言うと、ルネは呆れたようにため息をつき、縄梯子を引き上げた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


部屋に残されたルネは倒れ込むように椅子に座った。心配が杞憂に終わった安堵感と相変わらずの兄の調子に、どっと疲れが出て来たのだ。ふと、机の上に放り出された剣が目に入った。


―ラ・フェール伯爵はお前のことを兄弟のように思っているそうだ。

―彼はお前のためにも、彼らと仲直りしなければと思ったらしい。


決闘寸前までいった4人がどうやって仲直りしたのか、その場にいなかった自分に詳細は分からなかったが、アトスがどうやって場を丸く収めたのか、この折れた剣を見ている内に分かったような気がした。

―折れた剣、か…。

アトスはきっと、この剣を自分が目にすると分かってやったのだろう。彼が何を訴えたかったのか、ダルタニャンがどうやって納得したのか、大凡の見当はつく。

だがそれは、自分の望む関係とは相容れないものなのだ。


ルネは立ち上がると人を呼び、馬車を用意するよう命じた。

〜終〜



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