帰還



全ては終わった。

ルイ14世とその双子の王子フィリップとのすり替えは露見し、どんなことがあっても守ると誓った友は巨大な岩の下で息絶えた。

野心は潰え、己が半身を失い、王軍の軍艦は自分を生け捕りにしようと迫ってきている。

アラミスは、もはや逃げる意欲も、生きる希望すらも失っていた。水面に落ちた火矢の光が海の闇に呑み込まれるように消え、後には何もない暗い深淵が広がる。自分もきっと、この火矢と同じ運命を辿るのだろう。

敵の艦船から、降伏を促す声が聞こえてきた。自分以外の人間は助けると言っている。ルイが私を許すはずはない。生け捕りにされ、その後自分は殺されるのだろう。

それもいいかな、と思う。自分を慕うブルトン人に多少心は慰められたが、心に重くのしかかる絶望と罪悪感を拭い去ることはできない。

司教である私が、友の後を追って自害することはできない。ならばいっそこのまま捕まって殺されてしまおうか。

こんな気持ちを一生抱えて生きて行くくらいなら、いっそのこと―。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「お聞きになりましたか、司教様?」

ブルトン人の船乗りに声をかけられ、アラミスは再び我に返った。

「降伏勧告を、どうなさるおつもりで?」

アラミスは「受諾しなさい」と静かに答えた。

「しかし司教様、貴方様はどうなるのです?」

船乗りが心配そうな眼差しでこちらを見る。アラミスは身をかがめ、白いほっそりとした指の先で暗緑色の海水をすくいあげると、まるで女友達でもするように優しく微笑みかけながら繰り返し命じた。

「受諾しなさい!」

船乗りたちが、敵の艦船に向かって叫ぶ。

「では受諾します。しかし、我々の命の保障は?」

敵側の将校が答えた。

「貴族の誓言だ。私の位階と家名にかけて、デルブレー卿以外の全員の命を助けることを誓う。私は国王の巡洋艦『ラ・ポモーヌ』の艦長でルイ・コンスタン・ド・プレシニーと申す者だ」

―なん…だと…?

すでに海の方に身をかがめ、半ば小舟から乗り出そうとしていたアラミスの身体の動きがピタリと止まった。彼の明晰な頭脳が、イエズス会会員名簿の中にその名があることを瞬時にして突き止めたのだ。

勝った!と思った。イエズス会員であれば、自分の思い通りに動かすことができる。ここに至り、初めて明確な活路が見いだされたのだ。だが…。


―主は、こんなになってもまだ、俺が生きることを望んでいるのだろうか。

―それとも、生き延びることが俺への罰なのか…。


彼が物思いにふけったのは、ほんの一瞬のことだった。やがて迷いを断ち切るようにさっと顔を上げ、すっくと身を起こすと、燃えるような眼差しで、まるで自分が指揮官であるような口調でこう命じた。

「梯子を下したまえ、諸君」

唇には皮肉な笑みが浮かんでいた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


マドリード郊外にある小さな屋敷にルネは住んでいた。ヴァンヌの司教アラミスがスペインでの生活に不自由がないようにと彼女のために購入した別荘だ。

ポプラ並木が美しく、また小川や森などの自然に囲まれたこの地は、彼女の生まれ育った村に似て、彼女の心を和ませていた。ここで彼女は、フランスに行った彼とスペインとの連絡役を務めていた。

この日、彼女はアラミスの腹心の部下であるオリヴァ神父と共に、前管区長から引き継いだ仕事の一部を終わらせ、帰宅後はその報告書をしたためていた。手紙を書き終わり、蝋で封をする。あとは毎日定期的に来る伝令係に渡すだけだ。日はもうとっぷりと暮れており、そろそろ寝ようかとベッドに入ろうとしたとき、部屋の入口に人の気配がすることに気が付いた。

「誰?」

ルネがロウソクを扉の方に向けると、見覚えのある白い顔が闇夜に浮かんだ。

「まぁ…ルネ!帰って来るなら帰って来ると言ってくれれば…」

何の前触れもなくいきなり自分のところにやって来るなど、この男にはあり得ないことだった。ルネは何かあったのだろうかとロウソクを小机の上に置き、彼の所に駆け寄ろうとする。しかしアラミスの方が一瞬早く彼女に歩み寄り、その身体を抱きすくめると、そのままベッドに倒れ込んだ。

「ちょ…」

ルネはあまりのことに動揺した。確かに昔はこうしてよくベッドの上で睦み合ってはいたが、もはやお互いそのようなことをする年齢(とし)ではなく、褥を異にするようになって久しい。彼の腕から逃れようともがく彼女の耳元で、アラミスが懇願するように言った。

「何もしませんよ」
「えっ?」
「私は何もしませんし、貴女も何もしなくて構いません。でも今夜はどうかずっと、このままでいてくれませんか?」
「え?え…ええ」

いつになく弱々しい口調にびっくりしつつ、横目でそっと彼の顔をのぞき見ると、幾分白髪の混じった黒い髪の間から、いつになく青白い彼の顔が目に入った。その表情は心なしか苦痛にゆがみ、自分を抱きしめる腕からは微かにだが震えが伝わる。

―フランスで、何かあったのだわ…。


彼をここまで苦しめているものは一体何なのだろうという疑問が頭に浮かんだ瞬間、今の彼の様子が、婚約者を目の前で失った若かりし頃の自分の姿と重なり、ルネはそっと彼の肩を抱きしめた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ルネ、ルネ!もう朝ですよ。いい加減に起きてください」

恋人に小突かれ、ルネはけだるそうに眼を開けた。どうやら昨日はあのまま眠ってしまったらしい。身を起こすともう大分日が高いところに上っていることに気が付いた。

「今、何時?」
「午前10時です」

アラミスが部屋に掛かっている時計を見て答えた。

「使用人たちが嘆いていましたよ?貴女が起きてきてくれないから、ちっとも朝食の後片付けができないって。…全く、人は年をとると早起きになると言いますが、貴女という人はいつまでたっても寝坊助ですねぇ」
「あら、ありがと。いつまでも若いって言ってくれて」

ルネは大きく伸びをするとベッドから降りた。いつもと変わらぬ減らず口に安堵する。昨日は明らかに様子がおかしかったから大丈夫なのだろうかと心配だったのだが……いや、これはもしかして、わざと普段通りを装って話題を避けようとしている…?

かける言葉が見つからず、心配そうな表情をしているルネに、アラミスが妙にサバサバした口調で語りかけた。

「昨夜はびっくりさせてしまってすみませんでしたね」
「えっ?」
「急に―そう、急に貴女の顔が見たくなったものですから…」

それは本当のことだった。一昨日の夜、フランスの艦船を乗組員ごと乗っ取ったアラミスはスペインに到着すると、スペイン国王への報告や、自分に付き従っていた忠実なブルトン人と艦長他乗組員の身元保証に忙殺された。もはやフランスに帰るわけにはいかなくなった彼らがスペインで生活できるよう、取り計らってやらなければならなかった。

全ての用事が終わった時にはすでに日はとっぷりと暮れていた。昼間は自分の感傷を顧みる暇もなかったのだが、夜になって人気もなくなると、前日の胸の痛みがまざまざと蘇ってきた。

そんなとき、ふと彼女に会いたくなり、居ても立ってもいられなくなってやってきてしまったのだ。

「…会えてよかった」

アラミスは今の自分の表情を見せまいと、そっとルネの身体を抱き寄せた。スペインで大分長いこと暮らしてはいるが、やはりフランスの女だ。ほんの数日前までいたが、もはや戻ることも許されない懐かしい故国の香りがする。

大分昔、お互いまだ出会ったばかりだった頃、彼女の口から彼女の身の上を聞いたことがある。自分のせいで婚約者が死に、彼の息絶える様子を目の前でただ見ているしかなかったのだ、と。

なぜ彼女に無性に会いたくなったのか、その理由ははっきりとは分からなかったが、そんな胸を抉られるような経験をしておきながらも、果敢に生き続けている彼女だからこそ、会いたくなったのかもしれない、とアラミスは思った。彼女が歩んできたこれまでの人生と比べれば、自分がこの先生きる年月など、どれほどのものだろう。

アラミスは彼女から身体を放すと、自分の感情を彼女に悟られないようにニコリと微笑んだ。

「さぁ、せっかく起きたんだから朝食を済ませていらっしゃい。私はその間、友人に手紙を書いていますから。紙とペンを貸して頂けますか?」
「え?…ええ、どうぞ。机の上にあるもの、自由に使って」
「ではまた後で。…ああそうそう」

と言ってアラミスは、ポケットから白い封書を取り出した。

「これ、確かに受け取りましたよ」

昨夜ルネがしたためた報告書だった。

「私は今日から当分の間スペインにいますから、これで貴女の仕事は1つ減ったわけだ。どうです?朝食が済んだら久しぶりに2人で遠乗りにでも行きませんか?」

ルネは彼の調子に合わせるように、明るい口調で答えた。

「賛成!じゃあ私の支度が整うまで、お手紙ちゃんと書き終えていてね?」
「もちろんですよ」
「絶対よ」
「お約束します」

相変わらず心配そうな色を宿しているその瞳に「大丈夫ですよ」と微笑みかけると、アラミスは彼女の手の甲に唇を押し当て、そっと彼女を部屋の外に送り出した。途端に沈痛な表情になる。

―アトスとダルタニャンに、事の次第を知らせなければ…。

アラミスは椅子に腰かけると、一気にペンを走らせた。


〜終〜

―――――――――

テーマは「弱気な司教猊下」。ポルトス死んだあとはやっぱしばらくは落ち込んでるよねって思う。あと、彼にも帰る場所があっていいよねっていうね。アニ三アラミスでなくてもいいんだけど、なんかこう…傷ついた彼の心を癒してあげられる的な何か…というか誰か。

「アラメダ(Alameda)」というのはスペイン語で「ポプラ並木(道)」とか「遊歩道」とかいう意味だそうです。そんなわけでこの地が後にアラメダ公爵の名前の由来になったという勝手な裏設定。しっかし何だってこんな平凡というか長閑な名前ついてるんでしょーね、この人に。この人のその後の人生をデュマ先生が名前で暗示させようとしたのかな〜「アラミスはもう危ない橋渡らないで平穏に生きていくよ」的な。でも絶対何かしでかすと思うんですけど(笑)。尤もその「アラメダ」がこの「アラメダ」と同じという確証はどこにもないんですけどね。

そーいや書き終わった後、一応ベル・イールからスペイン亡命までのアラミスの足取りを原作で辿ってみたら、まっすくスペインには向かってなかったんですね。一旦バイヨンヌに立ち寄ったっぽい。バイヨンヌってフランスよね…?追われる身の上でフランス国内に留まっていて大丈夫だったのか…スペインには近いらしいけど。手紙もそこで書いたことになってるんだけど、今更書き直すのもめんどくさいので最初のイメージのままでいっちゃいました。

原作ではルイ・コンスタン・ド・プレシニーさんはラ・ポノーヌの「副官」ってことになってるんだけど、話の流れからして「艦長」なのではないかと…。別の訳書では「艦長」になっていたので「艦長」にしてしまいました。

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